ウィリアム・テロル, タイ・ブレイク

横溢するナンセンスかつトリッキーな空気感

轟 夕起夫

何とも不思議なタイトルである。『ウィリアム・テロル, タイ・ブレイク』。1994年に荻野洋一が発表した劇場デビュー作、本人初の16 mmフィルムによる20分50秒の短篇だ。

当時20代半ばであった荻野はすでに、(1991年の創刊号から)季刊誌「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」の編集委員を務めていた。フランスの“歴史的”な映画批評誌、形を変えながら今も発行されている「カイエ・デュ・シネマ」の日本版で、2001年に休刊するまで10年間ずーっと、その誌面づくりに関わった。そして現在も独自の視座をもって縦横無尽に評論活動を続け、テレビ番組などの仕事では構成・演出家として依然、映像制作にも携わっている──。

と、手短に監督紹介を済ませたあと、ここでもう一度、『ウィリアム・テロル, タイ・ブレイク』という気になるタイトルの話に戻そう。まず目に飛び込んでくる文字面「ウィリアム・テロル」からは、物騒な「テロル」の一語のインパクトにヤラレつつ、かの有名な固有名詞……息子の頭上に置いた林檎を矢で射抜いたスイスの伝説の英雄、「ウィリアム・テル」がやにわに浮かび上がってくることだろう。で、「タイ・ブレイク」のほうは引き分け、延長再試合を示す言葉だが、改めて全文を眺め、冒頭と最後のワードだけを合わせると英国ロマン主義の詩人にして幻想画家「ウィリアム・ブレイク」になる仕掛け。

つまりこれは、観る者に蹴手繰りを食らわすようなナンセンスな企みに満ちた、トリッキーなタイトルなのであった(ちなみに、各々の原語は「Wilhelm Terror」「Wilhelm Tell」「tie break」「William Blake」。お察知の通り、ポイントの掛け言葉の部分は「Terror/Tell」「break/Blake」なわけで、ややダジャレめいた言語遊戯なのだ)。

さて、名は体を表す。このナンセンスかつトリッキーな空気感は映画本体にも横溢している。それは冒頭の、数シーンのみを取りあげてもそう。ちょっと具体的に記してみよう。

初っ端に映しだされるのは、とある水辺と白樺の木。そこに「言うべき時を待ち過ぎて、何を言うべきか忘れました」というぶっきら棒な女性のナレーションがかぶさる。間もなく、製作・配給のOMURO PICTURESのクレジットと共に不穏な音楽が鳴り始め、次のショットは別の場所、いずこへと足早に男が歩を進めてゆく光景だ。音楽は仰々しく盛り上がっていき、タイトルが堂々画面に出て、いきなり緊張状態が高まっていく中、すると「ベチャッ」と気の抜けた音がして、テンションがふと緩む。投げつけられたスライムが、べったりと窓ガラスに張り付いたのである。

一事が万事、虚を衝いた、突拍子もないことがあれよあれよと起こる。その超展開の軸となるのは綺麗だがバンプな“姉妹”だ。まず窓ガラス上のスライムを目にするのは妹の弥生(生頼愛子)のほう。冒頭に登場した男、ボーイフレンドの弥太郎(七里圭)は、彼女が浮気していることを隣人から教えられる。一方、姉の妙(新藤朝子)はといえば、パトロンの中年男(宇田川幸洋)に恋人・拓(久保田寿)の存在がバレて大ピンチに。が、このパトロン、何と不幸にも妙と拓の情事の現場を目撃して、心臓麻痺で死んでしまう。妙と拓、弥生の3人は夜明け前、遺体を川に捨てに行く。

しかし大きなバッグに入れられて、沈められたはずのパトロンはある日、ひょいと街へと戻ってくるのだ。そして駐車中のロックし忘れていた車に乗り込んで、グローブボックスにあった銃を手にして構え、「BANG!」とマンガの擬音みたいに叫ぶ……さあ、どうなるのか?

脚本は新藤朝子(原案)と荻野洋一の共同執筆。本作は1994年4月16日より、今はなきインディーズムービーの聖地、中野武蔵野ホールにて公開された。同時上映はこちらも40分ほどの短篇、篠原哲雄監督の『草の上の仕事』でどちらも撮影は名手・上野彰吾。いわば“梁山泊”のごとき作品でもあり、他にも様々な重要人物が集っている。例えばパトロン役の宇田川幸洋は熟練の映画評論家にして、若き日はシネアストのキャリアを持ち、16 mm作品『おろち』(78年)で第2回自主製作映画展(現・ぴあフィルムフェスティバル)に入選。弥太郎役の七里圭は『のんきな姉さん』(2004年)で劇場デビューした、実験精神旺盛な監督で荻野とほぼ同年代、しかも同じ早稲田大学のシネマ研究会に属していた。また、製作の西田宣善は有限会社オムロ代表で、出版物の編集・発行を手がけ、映画プロデューサーとしては近年、『嵐電』(2019年監督:鈴木卓爾)、『無伴奏』(2016年監督:矢崎仁司)などを送り出している。

公開時の批評的位置付けは、劇場用パンフレットを飾ったレビュー《より屈折した戦略を強いられたポスト=ヌーヴェル・ヴァーグ(ベルトルッチ、ヴェンダース、etc…)の闘争に続く、第3の「映画=闘争」》(by佐々木敦)という見立てが正鵠を射ているが、今日びはもう少し、肩の力を抜いて接してもよいのかも。だってどのシーンも、のべつ生真面目で神妙な“顔”をしているけれども、どこか素っ頓狂なおかしみが滲んでいるのだから──まるでバスター・キートンみたいなデッドパン(無表情)の魅力にも似た! そういえば、先の劇場用パンフレットのインタビューに荻野監督はこんな発言を残していた。「鳥撃ちの名人だからといって最後にビルの屋上に仁王立ちする犯人を見事に撃ち落としたりするというような映画を目指していないことは確かです」と。明晰ではあるが、この迂曲した(思考の)文体と乾いたユーモア感覚の融合がまさしく作品の“心棒”なのだ。

轟 夕起夫(とどろき ゆきお)

映画評論家。1963年東京都生まれ。キネマ旬報やシネマトゥデイほかで執筆。近著(編著・執筆協力)に、「伝説の映画美術監督たち×種田陽平」(スペースシャワーブックス)、「寅さん語録」(ぴあ)、塚本晋也著の「冒険監督」(ぱる出版)などがある。